強制されているわけでもないが、自発的でもない。
自発的でもないが、同意はしている。
このような事態は日常に溢れており、想像に難くないと思います。
よく考えたら不思議なこの状態。
『中動態』という目線からこの世界を考察し、『自由とは何か』を突き詰める。
「能動VS受動」では語りきれない世界へと読者を連れて行くベストセラーです。
本記事は本の概要、『中動態』に関しての簡単な説明、書評という流れで進みます。
ではいきましょう!!
同著者による本の紹介記事はこちら!
本の概要
当ブログでも過去に紹介している國分 功一郎さんのベストセラー。
能動的でも受動的でもない『中動態』という概念に関して、主に言語学・哲学の観点から切り込んでいく。中でも、古典ギリシア語・ラテン語・スピノザの思想が中心となる。
出版は医学書院だが、内容に医学の要素は皆無。本書を書くきっかけや応用は医学に関連しているが、内容的には難しい医学の話は一切出てこないので安心を。
最終的には『中動態』と『意志・責任』を論じる流れで『自由とはどういうことか』のヒントを考察するに至る。しかし結論はなかなかに抽象的なため、日常生活に非常に応用が利くが、明快な結論を待望している読者にとっては煮え切らない可能性がある。
とにかく私たちの持っている世界を変えてくれる本であることには間違いはないので、一度読了することを強くお勧めする。
『中動態』とはなんぞや?
中動態は、能動態と対立する概念です。
『中』という言葉が入るから『能動態と受動態の中間にある態』なのではなく、それとは全く関係なしに『能動態と純粋に対立する態』です。
簡潔にいうと、意志とは関係なく「仕方なく同意する」世界です。
本書はこの『中動態』の概念によって、『自由とはどういうことか』という命題に向かいます。
さて、この『中動態』に関して、簡単に超わかりやすく説明してみたいと思います。
従来の能動と受動の対立では、「するかされるか」が問題になります。
例えば「殴る」という行為は、「するかされるか」で能動・受動を分けることができます。
しかしこの「能動と受動の対立」では、この世界の行為は殆ど語りきれません。
例えば、カツアゲの場面。
カツアゲされる側は、銃を向けられて脅され、金銭を要求されています。
流石に怖いので、その人は持っているお金を差し出すでしょう。
さてこの時、カツアゲされた人は「能動的に or 受動的に」、どちらのようにお金を出したのでしょうか?
自分から財布を出したから、能動?
でも脅されているから受動のような気がします。
このような「強制されているわけでもないが、自発的でもない。自発的でもないが、同意はしている。」という例はカツアゲだけでなく、「なんとなく」行動している私たちの生活に溢れかえっています。
一方、能動と中動の対立では、「主語が過程の外にあるか内にあるか」が問題となります。
能動では、動詞は主語から出発し、主語の外で完遂します。
中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表し、主語はその過程の内部にあります。
例えば「曲げる」や「与える」は、能動態の動詞の例です。
この動詞は、主体から発して主体の外で完遂する過程を表します。
一方、「出来上がる」「欲する」は、中動態の動詞の例です。
「出来上がる」時は、そのものは生成の過程の中にあるし、「欲する」のは心の中からの欲望ゆえのことであり、欲望による過程の中に主語はあります。
そして、中動態には、意志は存在しません。
なぜなら中動態の世界では、自分の中から「非自発的同意」として湧き上がってきた行為を「仕方なく」しているからに過ぎないからです。
この中動態の世界だと、先の「カツアゲ」の例を説明できます。
「銃で脅されたので仕方なく」お金を渡したのであって、そこに意志は関係ありません。
かなり論理を端折ってしまいましたが、
能動と受動の対立でしか物事を見れない私(たち)にとって、この視点は目から鱗でしょう。
まさに見えている世界が変わる瞬間です。
國分氏は、この概念を利用して『自由』に関して述べていくことになります。
ここまで読んで面白いと感じてくれた方、ここから先もめちゃくちゃ面白いのでぜひ本書を読んでいただきたいです。
書評
上で述べたように、この本を少しでも理解できれば見えている世界は変化します。
普段私たちが「意志」を持ってやっているようなことも、実はそこには「意志」なんて存在せず、「仕方なくダラダラと」やっているに過ぎないんです。
本書250ページあたりからは、かなり本質的な『私たちの行為はどのようにして起こるのか』という問題への答えが記述されています。
私たちが行為する(変状する)過程は二段階に分けられる。
(1)外部の原因が容態(私たち)に作用する。中動態に対立する意味での能動態(外態)が、他の容態に作用する段階。例えば、悲しい物語が私たちの脳みそを刺激する段階。
(2)続いて、容態の変状が開始される段階。中動態(内態)によって指示される、容態の自閉的・内向的な過程。悲しい物語の刺激が私たちに変状をもたらし、悲しいという感情を産まれさせる段階。
あくまで抽象的、そして理論的ですが、その考えから派生する『自由』の理論を応用できる場面はかなり多くあります、というより、私たちの行為のほとんどはこの考えで客観視できるようになります。
今まで「受動」だと思っていた行動の中に「中動」を見出し、そのなかで「受動」の割合を減らして自由度を上げていく。これが私たちにできる精一杯の「自由の謳歌」だと思います。
そして、同じく國分氏著の『暇と退屈の倫理学』を読めば、この結論はさらに深いものとなります。
「受動」だと思っていた世界(「消費」の世界)を、「贅沢」と「楽しむこと」で「その世界を受け取れるように」なる。これこそが「私たちの中に中動を見つける」ことだと思います。
そして、いつでも「動物のようにのめり込める」、つまり「退屈とは無縁に楽しめる」状態になれるよう、日頃から準備できるようになる。
これが僕の、本書を読んだ上での感想です。
意味わからん!!!でも知りたい!!
という方は本書『中動態の世界』と『暇と退屈の倫理学』を読むことを強くお勧めします!
ではまた!!
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